立花宗茂という人物をご存知でしょうか?
歴史作家の海音寺潮五郎さんが、
「最も尊敬する人物は、西郷隆盛と立花宗茂です。加藤清正や福島正則等は一応の価値は認めるが尊敬する気にはなれない。」
と言っています。
2020年の大河ドラマは「明智光秀」に決まりましたが、歴史ファンからの希望第一位は「立花宗茂」なのです。
さて、この立花宗茂、
豊臣秀吉からは、徳川家康の家臣・本多忠勝と並べられて「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と評されました。
その人物像とは?・・・
武士道精神のお手本中のお手本の方なんです。
ひとつだけ取り上げさせていただきます。
秀吉の側近である石田三成が軍目付として戦地にやって来て、立花宗茂に言った。
「貴殿が度々の戦さに大功をたて、殊に碧蹄館の先陣は抜群のお手柄と存ずる。然れども事実は必ずしも上聞(じょうぶん)に達せず、総指揮の宇喜多秀家の手柄になっております。如何であろう、私にお頼みあれば、実情を殿下のお耳に入れましょう」。
目付なら黙って実情を上奏すればいいのに、わざわざ自分に頼め、というのは、賄賂しだい、という誘いである。
汚い男だ。宗茂はこういう欲深の卑劣漢が最も嫌いだ。
宗成は言った。
「これは面白いお奨めだ。戦さの次第を見聞きし、ありようを殿下に報告するのが貴殿のお役目なのに、特にお願いしなければ、事実が伝わらぬとは、呆れたことだ。苞(ほうしょ)(賄賂)の多寡で勲功にありつくなど拙者の好みではない。たとえいかようなことになろうとも、武士は武運しだい。御申し出の儀、断り申す」
こういう廉白な武将にかかっては、石田三成はひたすら赤面するしかない。
「只今の話は…ま、お聞き流し下され」 と詫びて倉皇(そうこう)と席を立ったという。
・たとえ相手が誰であれ、へつらわない。
・豊臣秀吉であれ、徳川家康であれゴマをすらない。
・自分の名誉への欲がない。私利私欲では動かない。
・義理人情に厚い。仲間を大事にする。
・憎い者でもダメな者でも、困ったときは命がけでも助けに行く。
・人を陥れるようなことをしない。
陰謀、寝返りが当たり前のこの時代にこのような清廉潔白の武将がいたのです。
なぜイマイチ世に出なかったか、というと、関ケ原の戦いで秀吉への忠義から西軍につき、敗軍の将になってしまったからでしょう。
敗軍の将は、大抵は切腹か島流し。お家は取り潰し。
関ヶ原の戦いの後、逃げ延びて、浪人生活が数年過ぎた頃、宗成のところに、敵将である本田忠勝が、浪人の身である宗成に会いに来て、「徳川秀忠に仕えないか」、と伝えたのです。
秀忠は、敵とはいえ宗成の人柄に惚れこんでいたのです。
宗成は14年間忠勤を励み、ある日秀忠に呼び出され、「旧領の柳川への再封を命ずる」と言われました。
旧領地に大名として戻ってもよい、ということです。
その時宗成は、平伏し涙したと伝えられています。
関ヶ原の敗戦から21年後に、念願の旧領地の九州は柳川の大名に戻ることができたのです。
敗軍の将で大名に返り咲いた人物は立花宗成ただ一人だそうです。