2019年9月で70歳になる永ちゃん。
母親は永吉が3歳の時、夫と息子を捨てて蒸発。
広島で被爆した父親とは小学校2年生の時に死別。
このため幼少期は親戚中をたらい回しにされ、その後は父方の祖母に育てられ、極貧の少年時代を過ごした。
生活保護を受けていたし、学校の給食費も、教科書代もすべて免除されていた。
道具が買えないからスポーツなども参加できなかったし、いつもおなかが減っていた。
近所の裕福な家の子供に「お前の家は貧乏でケーキなんか買えないだろう」とケーキの一部を顔に投げつけられた。
悔しかった。屈辱的な毎日だった。惨めな思いだった。
自分が親になったら、息子の給食費や教科書代は絶対払ってやると誓った。
このような経験が積み重なり「BIGになる」との思いが芽生えた。
中学時代、ラジオから流れるザ・ビートルズを聴いてロックに目覚め、更にザ・ベンチャーズの広島公演に行ったことで感化され、スターになることを夢見るようになった。
その決意のまま、高校卒業を期に上京。
ギターと現金5万円を持って、夜行列車に乗って東京を目指すも、通路に座りっぱなしでケツが痛くなり、限界に達した頃、横浜駅に停車したのでバッと飛び降りた。
「もし、あのまま東京まで行っていたら現在の矢沢永吉は存在しなかったのではないか…」
横浜という街は矢沢永吉を育てた。
米軍基地で歌ったり、キャバレーやバーで幾つかバンドを作っては潰す毎日を続けた。
「才能のないヤツは去れ!」とバンドのメンバーを変え続け、1973年に結成されたのが伝説のバンドCAROL(キャロル)だ。
「人がなんと言おうと自分の夢は必ず叶(かな)うと思っていたのは、不思議だね。
それだけ今の境遇から這(は)い上がりたいと思っていたし、とことん音楽に夢中になる自分を信じられたんだと思う。」
曲をずいぶん書きため、後にヒットする『アイ・ラブ・ユー、OK』も18歳の時にはできていた。
音楽でスターになる、その思いの強さだけで広島を出てきたけれど、
いい曲を作って、何でもやってやるという覚悟だけは誰にも負けない、という自負があった。
進みたい方向は自分で決めないと苦しい。
親や学校、そしてマスコミも好きなこと言ってる。
「低成長時代に突入したから、すべて安全に選ばなくちゃいけない」、なんてね。
いい子になってその助言だけを聞いていたら、迷路に入る。
自分の人生を照らす明かりは、自分の心の中に灯(とも)しておかなくてはいけないもので、
他人に吹き消されてはだめだ。
僕は「成りあがる」という言葉を大切に思っている。
自分の手で階段を上っていくわけで、こんなワクワクすることはない。
「うちは裕福だから」、とうそぶいている人だって、そのご先祖の誰かが成り上がったんだ。
成り上がりの反対は、ぶら下がりだ。
やっぱりそれじゃつまらないよね。
絶対にやってやる、絶対にあきらめない、という気持ちが成功への近道なのですね。
やりたいことをやる、ということは、リスクはあるけれど、
もしやらなかったら、人生の幕を閉じる時、後悔するんじゃないかな、と思います。
後悔しない人生、「いい人生だったな」と笑って旅立てる人生を送りたいものです。